映画塾コム2000.4.15


2000

 

1月29日(土)

「地雷を踏んだらサヨウナラ」公開記念

五十嵐匠監督特集

〜8mm処女作から劇場公開第1作まで〜

 

写真=五十嵐監督による講演

 

 

1月29日(土)、午後2時から新潟市万代市民会館3F視聴覚室にて開催

上映協力金 1200円(映画塾会員、シネ・ウインド会員、電話予約、チラシを持参の方は1000円)

 

■入場者、会員以外が半分占める

 入場者52人。

 月刊ウインドと一緒にチラシ(3000枚)を送ったり、電話で会員を誘ったりして、かろうじて赤字を免れた。来場者の半分が会員以外であった。

 一ノ瀬泰三を直接知る方(同郷で先輩)からファクスが届き、五十嵐監督にお礼を述べられてあった。新潟日報で上映会予告が掲載されたおかげ。

 五十嵐監督は、何度目かの新潟。久々に自分の作品を上映できて、たいへん上機嫌であった。

(五十嵐政人)

 
五十嵐監督講演要旨

 中学生のとき、青森から水野晴郎さんに「映画監督になるにはどうすればいいんですか」と手紙を書いたら、突然ロンドンからはがきが届いて「いまの勉強をきちんとやって、映画をたくさん見ることです」と書いてありました。

 大学に入って、シナリオセンターに通い、永山則夫が僕の隣町の生まれで、彼をモチーフに『幻影肢』という8ミリを撮ったら、ぴあ展でたった一人長谷川和彦監督が推薦してくれました。

 卒業して、タウンページで映画関係を片っ端から電話したら、兼高かおるの会社を受けることになりました。僕だけ全然英語ができなかったのに受かってしまった。『兼高かおる世界の旅』はたった3人で、しかも16ミリで撮っているんです。兼高とキャメラマンとその他すべてです。録音、照明、何でもやらされます。少人数で撮ることを覚えました。

 沢田教一は昔から撮りたくて1987年に初めてベトナムに行けたんですが、留置場に入れられてしまって、その天窓から星が見えたとき、撮ることを決めました。

 青森の一部上場企業を調べたら、青森銀行とみちのく銀行の2つがあり「沢田を撮りたい」と長い手紙を送ったら、翌日みちのく銀行の頭取大道寺さんから留守電が入ってました。お会いしたら「私も沢田を尊敬しているんだ」と言ってくれました。

 『サワダ』の撮影で世界各地を回ったんですが、みんなの口から一ノ瀬泰三の名前が出るんです。「タイゾー、タイゾー」って呼び捨てにしている。沢田は「サワダサン」なんです。

 それで、タイゾーに興味を持って調べると、タイゾーはボクシングの写真を撮るために、ジムに通ってプロテストを受け、ソウルに行って試合までして勝っているんですよね。南の人ですね。沢田はアメリカに住みたいって言ってましたが、タイゾーはブラジルに行きたかったそうです。

 『地雷を踏んだらサヨウナラ』は浅野君決め打ちで、マネージャーでもあるお父さんに手紙を書きました。浅野君の新しい面が撮れたんじゃないかな、と思っています。

 ラストは、頭がい骨を洗うシーンを考えていたんです。というのは、ご両親が彼の頭がい骨を確かめたときに、歯型でわかったんですが、泥まみれの頭がい骨を川で洗ったんです。でも前向きに終わらせたくてやめました。この映画はカンボジアでも上映されることになっています。

(文責・五十嵐政人)

 
▼------------------ 開催予告 ------------------▼

『地雷…』は、浅野君と格闘しながら撮った。1カット撮り終えるとコーナーに戻り、ゴングが鳴るとまたファイトした一。

 

 2000年1月22日から2月4日まで、新潟・市民映画館シネ・ウインドで公開される浅野忠信主演「地雷を踏んだらサヨウナラ」。その公開を記念して、五十嵐匠監督の初めて撮った8ミリ映画から劇場公開第1作までを上映、五十嵐監督の足取りをたどります。

 

写真=五十嵐匠監督「津軽」のワンシーン

 

第1回上映 午後2時〜4時45分

監督講演  午後5時〜6時

第2回上映 午後6時15分〜9時

 

上映作品

1死期 1979年 8ミリ15分

2幻影肢 1980年 8ミリ45分(PFFで長谷川和彦の推薦を受け入選)

3埴輪 1981年 8ミリ20分

4津軽 1989年 16ミリ75分

主演:室田日出男、川島昭恵 盲目の女にいざなわれた男の故郷へのレクイエム


すごいの原型『死期』と『津軽』

五十嵐匠上映会に寄せて〜五十嵐政人(にいがた映画塾事務局長)

 

 五十嵐匠の八ミリを初めて見たのは、昭和五十四年の九月だと思う。夏休みにサークルの仲間を一人連れて帰省し、一本撮って帰ってきた。江古田の彼の下宿だと思う。四畳半の襖(ふすま)か壁に映したその画にはちょっと驚いた。というより、嫉妬した。一年後輩でカメラもほとんど扱ってない匠なのに。

 見たことのない彼の故郷津軽が、美しく、暖かく、輝いていた。「すごいの撮ったな、匠」と言うほかなかった。「編集しなくていいよ」と先輩ぶった。その八ミリは『死期』と名付けられた。何かの原型のようだった。

 それから十年、彼は最初の劇場公開映画『津軽』を完成させた。「故郷の冬が世間で言われているように暗く長いという印象を抱いたことは一度もない。陽光に反射するまばゆいほどの雪の白、視界に広がる華やかな雪原、白い世界が人々の心をおだやかに静めてくれる」という映像詩だと手紙に書いてあった。

 果たして『津軽』は暗く、重く、沈んでいた。それなのに、『死期』のように輝いていた。十年前と同じように「すごいの撮ったな」と、また言った。今度は気持ちよかった。

 その後、彼は映画監督と呼ばれるようになった。「すごいの撮れよ」と『ナンミン・ロード』、『サワダ』を見た。すごいかどうかの原型は、『死期』と『津軽』にある。『地雷を踏んだらサヨウナラ』は果たしてどうか。『死期』と『津軽』を見なければ始まらない。


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