99.10.08


映画が街にやってきた

―「白痴」制作・新潟の2000日物語―

「白痴」の記録編纂委員会編

新潟日報事業社発行

定価1500円(税込)四六判、275ページ

 

章立て、本書のサワリ
はじめに

 「実は20年前のきょう、初めてつくった映画がこの映画祭で上映されたんです。その後の半分にあたる10年間を僕は『白痴』に費やしてきた」

 1999年7月3日夜、東京国際フォーラム。「ぴあフィルムフェスティバル」で手塚眞監督の映画『白痴』が初上映された。約320人の前で手塚監督は感慨深げに述べた。

 「何でこの映画をつくろうと思ったんだろうって、常に感じていた。イメージがたまって苦しくなりました。心の中から出さないと気が狂って死んでしまう。つくり上げないとしょうがないと思ってやった」

 『白痴』の原作は、新潟市出身の作家、坂口安吾。(略)

 撮影に入るまでは難航を極めた。制作費は7億円。資金は思うように集まらず、何度も企画は暗礁に乗り上げた。いわば「東京」に見捨てられた企画だった。そんな苦しい状況の中で、「安吾」を仲立ちに、手塚監督は新潟の協力者たちを得る。新潟にオープンセットを建て、制作費7億円の半分、3億5000万円を地元から集めることになった。

 新潟市の信濃川沿いにある、1万5000平方メートルの土地に造られたセットを中心に、98年5月23日から8月16日まで、梅雨の期間を除き県内各地で撮影は行われた。撮影期間、準備段階も含めて、新潟で手伝ったボランティア、エキストラなどの関係者は1000人近くに上る。

 特にボランティアは猛暑の中、100人規模の撮影隊を支えた。多くのスタッフは「この映画ができたのは、新潟の人たちのがんばりが大きい」と口をそろえる。

 一方、制作費の方は、行政からの助成金は出ず、企業の協賛金も集まらず、1億円はおろか1500万円も集まらず、新潟での資金集めは完全な失敗に終わる。

 盛り上がる個人と動かない組織。この極端な差はいったい何なのか。

 『白痴』はまた、従来の日本映画の制作では考えられなかったさまざまな試みも行われた。

 地域住民に映画づくりの楽しさを教える「にいがた映画塾」、市民がお金を出し合い市民の文化活動を支える「アートサポーターズ」、映画制作への熱意を持つ若者を全国から招き、現場で養成する「映像十字軍」。いろいろな動きが新潟で同時に起こり、『白痴』は映画制作というよりも「文化運動」のような展開を見せた。

 

 撮影終了後の98年9月、元ボランティアや映画塾の卒業生、『白痴』の新潟事務所で働いた元専従らが集まり、記録集をつくろうということになった。

 知りたいことは一つ。「新潟にとって、自分たちにとって、映画『白痴』とは何だったのか」

 自分たちが見てきたこと、感じてきたことを出し合い、周りにも聞き書きし、『白痴』の元スタッフら東京の関係者にもインタビューした。

 「新潟側から見た『白痴』の記録集をつくりたい」という私たちの趣旨に理解を示し、協力していただいた方々にお礼を申し上げたい。

 

 本書は映画『白痴』の記録ではない。映画『白痴』をめぐる新潟の記録である。

 

『白痴』の記録編纂委員会

 

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