99.10.08


映画が街にやってきた

―「白痴」制作・新潟の2000日物語―

「白痴」の記録編纂委員会編

新潟日報事業社発行

定価1500円(税込)四六判、275ページ

 

章立て、本書のサワリ
1、出会い

手塚来訪

 1993年3月27日、春めいた日の新潟市。万代シテイという繁華街の喫茶店に手塚眞はいた。目の前に座っているのはミニシアター「新潟・市民映画館シネ・ウインド」代表の斎藤正行。2人はこの日が初対面だ。当時手塚は31歳、斎藤は43歳。

 手塚が新潟まで足を運んだ目的はただ一つ、新潟市出身の坂口安吾の小説『白痴』映画化へ協力を求めるためである。

 

 「『白痴』を映画化したいんです」

 「え、ホント、やろうやろう、うれしいー」

 「5億円はかかると思います」

 「そんなのすぐ集まるでしょ。半分ぐらいは新潟で集まりますよ。(喫茶店の主人に)ね、マスター、あんたも出さない? 5億円、5億円」

 斎藤の“軽さ”に手塚は拍子抜けした。

 

 その夜、市内の小料理屋「銀の吹雪」で手塚の歓迎会が開かれた。斎藤が世話人を務める「安吾の会」会員や、新潟の映画祭のスタッフらが集まった。そこでも今後の作戦を練るというより、安吾や映画好き同士の歓談で終わった。

 「にいがた国際映画祭」のスタッフ矢部孝男(34)にとって、手塚は自主映画界のスターだ。しかし初めて会った手塚の姿は「おどおどして、線の細い印象だった」と矢部は言う。そして5億円の映画の話を出されてもピンとこないのが現実だった。

 

 手塚が『白痴』の映画化を考えたのは88年。それから折に触れて知り合いのプロデューサーらに企画を話してはいたが、東京で進めるには非常に難しい企画だった。文芸作品で、しかも制作費は5億円。手塚の実力もまだまだ未知数だ。日本の映画会社が急速に体力を落としていくころでもあった。

 手塚は、東京資本とは別の「核」を模索していた。安吾忌などに顔を出すうちに、新潟に「安吾の会」という団体があることを知る。93年3月18日、手塚は新潟県内の新聞社である新潟日報社東京支社を訪れる。そこで安吾の会世話人の斎藤正行は、映画館のオーナーでもあることを知った。

 「斎藤さんはきっと、地方によくいる金持ちの趣味人で、出資ぐらいしてくれるだろうと勝手に思い込んでいた」

 ところが斎藤に会ってみると、どう見ても金があるようではない。歓迎会のメンバーも「出資」とはほど遠い人たちばかりだ。

 ただ、手放しで「やろう、やろう」という人々に囲まれ、手塚は元気がわいた。金銭に関しての保証は全くなかったが、『白痴』の映画化に向けて「心の支え」を得た気がした。

 

 もっとも、その時点で作品の半分以上を新潟で撮影することになるとは、手塚はおろか、斎藤も矢部も考えもしなかった。

 

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