99.10.08


映画が街にやってきた

―「白痴」制作・新潟の2000日物語―

「白痴」の記録編纂委員会編

新潟日報事業社発行

定価1500円(税込)四六判、275ページ

 

章立て、本書のサワリ
撮影延期

 「なんだ、このどよんとした空気は」

 初めて新潟・映画『白痴』制作準備室の事務所に入ったライン・プロデューサーの梨木友徳(31)は妙な違和感を覚えた。

 「クランク・インも間近になると、スタッフの気持ちが一つになっていくのを肌で感じる。ところが、あのときの準備室は、とてもこれから映画をつくるという雰囲気ではなかった」

 梨木は1991年ごろ映画の世界に入り、手塚の短編映画「NUMANITE」(95年)に参加。翌年、『白痴』の脚本を渡されていた。97年に入り「新潟にうまいものを食いに行こう」と古澤敏文に誘われた。古澤がこう言うときは、仕事の誘いだ。新潟に着いたのは5月31日。クランク・インは9月と聞いていた。

 「あれーと思った。こんな状況じゃ逆算しても間に合わない」

 6月下旬から7月にかけて、製作主任の安田憲邦や製作進行の平原大志らも合流。準備室側が用意した貸家を拠点にロケハンに入ったが「街を挙げて映画をつくるムードなのかと思ったのに、全然浸透していない」。梨木はがっかりした。

 

 「どよん」とした空気は、5月の「地元オーディション」が終わり、『白痴』を盛り上げる次の一手を出しあぐねている時期だった。矢部孝男もボランティアも、映画づくりのために何をすればいいのか分からず、東京から具体的な指示もなかった。そんなときだけに、梨木ら“実働部隊”の到着は「待っていた、という感じだった」と矢部は言う。

 「梨木さんたちが、あれをやってくれ、これをやってくれと具体的な指示を出してくれると思っていた。つくる過程を見せれば、お金も集まるだろう」

 しかし梨木は古澤に進言した。

 「新潟では、現時点でとても撮影に入れる状況ではない」

 それは古澤も痛感していたことだった。

 

 「どうなってるんだ。もうすぐ制作費支援のめどが立つと言っていたのに、まったく見えていない。子どもの遊びじゃないんだ。いったん流した方がいい」

 7月末、手塚プロダクションの社長・松谷孝征は、古澤に言い放った。

 

 深夜、準備室専従の山下念吾のもとに古澤から電話がかかってきた。

 「新潟側にまだ言ってはだめだ。今年は中止する」

 驚きもせず、とまどいもなく、淡々と山下は事実を受け入れた。

 「おまえは今まで通り業務を続けろ。ただし規模は拡大するな。今進んでいる話はまとめるな。『白痴』は中止ではなく延期だ。正式に発表した後、流れがストンと落ちないように事後整理しなければならないから、1カ月ぐらいは新潟に残ってくれ」

「資料は丁寧にまとめておけ。準備室はたたまず、矢部さんたちに任し、ボランティアの運営にゆだねる」

 

 矢部には役員会の前日、古澤から電話がかかってきた。新潟の資金的なめどを確認する電話だった。当然、色よい材料はない。それは古澤も分かっていたはずだが、万が一という思いが受話器からにじみ出ていた。翌日、矢部のPHSに再び電話が入った。古澤はぼそりと言った。「いま、延期が決まったから」

 

 延期前後の状況について、手塚眞は振り返る。

(以下略)

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