99.10.08


映画が街にやってきた

―「白痴」制作・新潟の2000日物語―

「白痴」の記録編纂委員会編

新潟日報事業社発行

定価1500円(税込)四六判、275ページ

 

章立て、本書のサワリ
映像十字軍

 映像十字軍とは、プロデューサーの古澤敏文が企画した「映画スタッフ養成制度」だ。映画界を志す若者を対象に3月から8月までの5カ月間、新潟に住み込みでプロのスタッフの補佐をしながら映画制作を体験学習するというものだ。ただし給料は「米1俵」。実質的なただ働きとなる。

 全国から約150人が応募し、自己紹介ビデオなどを参考に18歳から34歳までの15人が選ばれた。平均年齢は24歳。居住地は青森、福島、宮城、群馬、東京、愛知、大阪、熊本など全国各地に散らばっている。全国に『白痴』の知名度を高めようという狙いもあった。

 映像十字軍募集の背景として、映画人を育てない日本映画の体質がある。昔は大手映画会社は社員として制作スタッフを募集し、スタジオで一人前に育てるシステムがあったが、映画産業の斜陽とともに制作スタッフを外注するようになり、公には人材募集はなくなった。そのため映画の道に進みたい人は、コネを頼って潜り込んだり、技術スタッフに弟子入りしたりするしかない。教育も昔ながらの「徒弟制度」のように、働きながら先輩の技術を盗むような環境で、映画人育成のシステムというものは確立していない。

 海外の事情に詳しいアシスタント・プロデューサーの井上潔によると、欧米では映画産業全体で人材を育てなければならないという考えから「インターン」制度が一般的だという。「米国の場合、メジャー系のスタジオでは1作品に必ずインターンを入れなければならない規定がある。ドイツでも必ず1人はインターンを入れるようになっていて、小遣い程度の給料が支給されている」と説明する。

 

 「新潟って、なんでこんなに寒いとこなの」

 3月中旬、熊本から新潟入りした松村真子(23)は、どんよりと曇った日本海側の冬にまずはびっくりした。

 松村は商業高校卒業後、レストランのアルバイトなどをしながら「福岡実践映画塾」に参加、「映画をつくりたい」という思いが強くなっていた。映画塾の講師だった古澤に応募を勧められ自己紹介ビデオを送った。「あの時は、ウエイトレスの仕事に時間も体力も追われる半面、映画制作にかかわっていないこと、自分が映画をつくっていないことに焦っていた」

 2月の終わりごろ「通知来たか」と古澤から電話があった。3月25日に集結するほかの十字軍より先に新潟入りし、十字軍立ち上げを手伝ってほしいということだった。電話の翌日届いた合格通知には、生活に当たっての電化製品、家具などは『白痴』側で用意する、旅費、身の回りの生活品の送料(上限1万円)も負担してくれるとあった。貯金はほとんどなかったので、持っていた株券を母親に買ってもらい生活費をつくった。

 最初の仕事は制作部の安斎みき子の下で、ボランティアから提供してもらった十字軍の生活用品を確認、振り分けすることだった。十字軍用の住居が決まってからは各家の掃除や生活品の搬入、卒業する大学生からの連絡で電化製品をもらいに車で回収にも出かけた。パソコンに詳しいボランティアから表計算ソフトの使い方などを教わり、十字軍の小口経理も任されるようになった。

 

 3月下旬に、残りのメンバーが続々と集まってきた。最年長の中根克(34)は大手電機メーカーのシステム・エンジニアとして米国のボストンに赴任していたが、退職して新潟にやって来た。「『白痴』は私にとって“浮力”だった」。きまじめそうな中根は、さらに真剣な表情で話す。

 大学院で生体工学を研究した後、28歳で入社した。「もともと映画の道に進みたいと思ってシナリオ講座に通ったりしたが、入り口が分からなかった」。会社では研究してきた分野を生かせない不満があった。そんなときインターネットの『白痴』ホームページで「映像十字軍」のことを知る。

 「自分の好きなように生きていきたい。安定した収入がゼロになる不安はあるが、バイトすれば何とかなるし、年齢的に最後のチャンスだ」。会社は「せっかく投資して育てた人材なのに」と難色を示し、両親も猛反対だったが、決心は揺るがなかった。

 

 斉藤暁生(25)は東洋大学の大学院生だった。「卒業後の進路も決まってなく、漠然と何かをつくりたいと思っていたので、十字軍はいい機会だった」と言う。大学院では社会学を専攻していたが「大学院での研究は嫌いじゃないけど、言葉とたわむれているだけで、行動が伴わないことに不満はあった」

 住居は、男性は6人づつ2軒に分かれ、3人の女性は平屋建ての3Kの貸家が用意され、各家にはみんなで集まる居間をつくることが義務付けられていた。斉藤があてがわれた家は、繁華街の古町近くの狭い路地を入った古い家。立て付けは悪かったが、1カ月も経てば共同生活は快適だった。

 食費は1人1日1700円(朝400円、昼600円、夜700円)が実費支給された。生活必要品はそのつど申請して実費をもらっていたが、スタッフとの信頼関係ができるまでは「塩一つ買うのにもうるさくて困った」(斉藤)という。

 

 十字軍のスタッフ側“お世話係”は、制作部の安斎だ。十字軍にしろボランティアにしろこれだけの「アマチュア」が現場に入ってくるのは安斎にとって初めての経験だった。「古澤さんの理念は分かるが、現場で教えるというのはどうすればいいのか戸惑った」と言う。

 4月中旬、オープンセット建設が本格化するにつれ、十字軍の約半数はセット建設の助手として、美咲町で朝から夕暮れまで肉体労働をしていた。慣れない大工仕事に戸惑いはあったが「映画づくりに携わっている」という充実感があった。

 残りの半数は新潟駅近くの花園2丁目にある新潟・映画『白痴』制作準備室に残り、地元から提供されるセット装飾用の“古い物”探し、地元のエキストラの募集・情報集め、電話連絡などの仕事をしていた。あこがれは「美咲町」で、準備室の仕事を地味なものに感じていた。

 

 松村真子は「花園組」で安斎の助手だった。松村はオープンセットに行くことが「現場」で、準備室は映画制作の現場ではないと感じ始めていた。

 「ここで何やってんのかなあ、自分は…」

(以下略)

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