99.10.30


「白痴」新潟からスタート

ロードショー公開始まる

感動、映画館を埋め尽くす

写真=トークショーで映画の裏話を披露する手塚眞監督(中央)と、ボランティアなどで「白痴」の制作に関わった4人。左から宮澤さん、河内さん、奥田さん、石川さん(シネ・ウインド)

 

 映画「白痴」、ついにロードショー公開! 1999年10月30日、新潟市内の映画館2館を皮切りに上映は始まった。初日はどの回も満員で、「白痴」に対する新潟県民の期待の高さをうかがわせた。舞台あいさつに訪れた手塚眞監督もその熱気に当てられたようで「新潟に着いたら『ただいま』という気持ちだった」と話し、元ボランティアなどが参加したトークショーでも終始興奮気味だった。

(レポーター・星龍雄)

 

 「松竹ピカデリー」では、約200人の観客を前に「釜山(韓国)やベネチア(イタリア)の映画祭では出演者に対する反響が一番大きかった。新潟市民の人たちと一緒につくったんですよと言って回っていた」と、最大級の賛辞で新潟の協力に感謝した。「『白痴』は見終わった後、楽しかった、面白かっただけで忘れてしまう映画ではなく、いろいろなものが心の中にたまり、新しく何かが心の中で生まれていく映画だと思います。『白痴』の記録(『映画が街にやってきた』―新潟日報事業社から発売中)とともに、これから何年にも渡って楽しんでもらえればと思います」とあいさつした。

写真=シネ・ウインドの前には、開場を待ちわびる人だかりができた

 夜8時から「新潟・市民映画館シネ・ウインド」で開かれたトークショーでは、86席しかないミニシアターの同館を、倍近くの観客が埋め尽くした。手塚監督の短編「PRELUDE」や、新作の短編「実験映画」(永瀬正敏、橋本麗香主演)も上映された。トークショーでは、手塚監督が進行役も務めながら元ボランティアら4人のゲストを囲み、当時の思い出話、撮影のこぼれ話などで盛り上がった。以下、そのときのやりとり。

 97年の公開オーディションで司会をしたフリー・アナウンサーの石川千春さん。「朝来たら、会場の新潟フェイズの前にはズラリと人が並んでいてびっくりした。新潟の人たちって、おとなしいという印象があるが、こんなに熱いものを持っているのかと感動しました」

 手塚監督「最初、新潟で映画を撮るぞってお願いに回っていたときは皆さん半信半疑で、反応はよいものではなかった。新潟の人たちは冷たいのかなと思ったりもしました。でも、オーディションでは皆さん生き生きして、本当に楽しんでいて、実は新潟の人たちは熱いんだ、いける、新潟でいけるという確信を持ったんです」

 映画のクライマックス、空襲シーンで炎にのまれるエキストラをやった宮澤正子さん。宮澤さんはフィットネス・クラブのインストラクターなどをしながら、市民ミュージカルの劇団「ミュージカルパーティー・あるふぁうぇいぶ」を主宰している。「即興で踊ってくれと言われて、まずはゆっくりと、次第に激しく、炎に包まれてあえいでいる苦悩の顔でやりました。ちょっと火傷もしました」

 手塚監督「本当はあそこのシーンは、踊っているのではなくて、火の中でもがいているのですが、それでもどことなく踊っているような不思議な感じを出したくてキャスティングしたんです」

 第1期映画塾から「白痴」に関わり、撮影現場ではヘアメイクのボランティアをした河内亜古さん。「スタッフをやりすごく楽しかった。プロの人たちの人となり自体がプロフェッショナルで、格好よかった。いい勉強になった」

 手塚監督「実は、メーキャップの人たちはファッション写真やファッションショーでは活躍していますが、映画のプロではないんです。ファッションショーだったら素晴らしいメイクは毎日繰り返すわけではない。でも映画の現場では撮影が何日も続く上、毎回同じメイクをしなければならない。カットが替わるごとにメイクが違ったらつながらないですから。彼らにとっても経験しながら覚えていく毎日だったんです。ボランティアに教えることが実は彼ら彼女らにとっても勉強になったと思います。映画ってプロ、アマ関わらず経験しながら自分を磨いていく不思議なメディアだと思います」

 本職は建設会社の現場監督。「白痴」では撮影現場に毎日詰めて、セットの建設作業などの指揮を執り、ラストの方に出てくる川を一人で作ってしまった奥田信一郎さん。ちなみにあの川はスタッフからは「奥田川」と呼ばれた。「新潟で映画撮影をやるというのが面白く思って参加した。爆破シーンが一番印象深いが、木枯の家が焼け落ちるシーンで、倒れる方向が逆だったりしたのは残念だった」

 手塚監督「更地に町をつくる、まさに建設現場のような撮影で、奥田さんはなくてはならない人材だった。川のシーンは最初は本当の川で撮る予定で場所も探していたが、撮影しにくい条件がいろいろあった。そこでセットの敷地内で作ろうと決まったら奥田さんがパッパッと掘ってくれた。頼もしかった。普段の自分たちの日常の仕事が、実は映画を生かす大事な要素なんですね」「家が焼け落ちるシーンは、ちゃんと崩れ落ちていましたよね。実はあの場面は、倒れる家だけ高さ1メートルぐらいのミニチュアをつくり、火をつけて前に崩れるように撮影しました。それをコンピューターを使ってその部分だけ撮影された場面と入れ替えたんです。その前を走る浅野忠信さんと甲田益也子さんも危険なので、走るシーンだけをスタジオで撮影し、後でコンピューターで合成しました」

 手塚監督はまた、空襲シーンで倒れる住人のシーンで自分も出演したが、クッションではなく誤って地面に落ちて頭と肩を強打。「死ぬかと思った」ほどの痛さからピクピクしていたら、スタッフからは演技だと思われ「監督、もう一度お願いします」とNGを出されて困ったこと、新潟の米が美味しくて撮影中に5キロも太ってしまったことなども打ち明け、会場を笑わせていた。

 「白痴」は映画のプロだけでなく、メイクのような映画は初めてのスタッフや、新潟、群馬県桐生市、全国から映像を志す若者を募った映像十字軍など、ごく一般の人たちも多く参画した。手塚監督はこのことに触れ「どういう映画をつくりたいかは最初は監督の作業ですが、途中からいろいろなプロの力を必要とします。もちろん映画の世界とは関係のないプロの力もです。それぞれの力が組み合って映画ができていく。それだけにできあがった感動も大きい」と話した。

 「できあがった感動」―。館内が普段の映画上映と違う雰囲気だったのは、いわばパッケージに包まれた“商品”とは違う、1年前のあの時、まさに新潟でつくられ、そしてできたという感動を観客一人ひとりが共有していたからかもしれない。

 「白痴」の完成までには紆余曲折があった。新潟の反応は最初からいいものではなかった。手塚監督の熱意が空回りする場面を多く目撃した新潟の関係者からは「『白痴』は呪われた映画だ」という声もあった。しかし2時間26分という長編で無事日の目を見て、新潟の人たちに温かく迎えられた「白痴」は「幸せな映画」として昇華した。


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