にいがた映画塾コム 2000.7.19

     

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映画は“思い”の産物

それぞれの「阿賀に生きる」

2000/07/16(sun) Chapter.10

写真=信濃川沿いで全員参加の食事会。開放的な気分に浸る受講生

 

 第5期映画塾10日目。新潟で生まれたドキュメンタリー映画「阿賀に生きる」(1992年)の当時のスタッフ、関係者を招き、シンポジウムを行った。「発端」「参加」「支援」「上映」「批評」といった各場面に立ち会った6人の生の声を通して、この映画のもう一つの側面が浮かび上がった。関係者の一人は「いろいろな人の思いが、この映画のどこかに反映されている」と語り、映画とは「思いの産物」であることを強調した。夜は信濃川の河川敷で屋外懇親会が開かれた。折しもこの日の晩は皆既月食。“天体ショー”の下で受講生、スタッフとも大いに盛り上がった。(ほし)

午後1時5分

あいさつ

司会:五十嵐政人

午後1時20分〜3時20分

映画鑑賞「阿賀に生きる」

16ミリ上映

午後3時30分〜50分

アンケート記入

午後3時50分〜6時

パネルディスカッション

「新潟における映画制作の成果と課題」

パネリスト

旗野秀人(地元世話人)、高見優(製作委員会事務局)、小林茂(撮影)、村井勇(スチール)、小川弘幸(上映)、大倉宏(批評)

司会・進行 五十嵐政人(映画塾スタッフ)

午後6時頃〜6時30分

卒業製作状況報告、まとめ

午後7時30分〜

屋外懇親会

信濃川・やすらぎ堤

会場・新潟市万代市民会館

 

 パネルディスカッションは、映画がつくられ、上映され、批評を受けるということはどういうことなのかを、1本の映画を通じて学ぶのが狙い。むろん「阿賀に生きる」が新潟で生まれ育てられた、優れた「モデル」であることは言うまでもない。

写真上=左から村井さん、高見さん

 映画の舞台となる安田町で、長年水俣病問題に関わってきた旗野秀人さんは「裁判や行政不服だけでは伝えきれない魅力が、水俣病の患者さんたちにはあった。告発しなくても、この人たちをそのまま撮れば、世界でも通用すると思った」ときっかけを語り、撮影の小林茂さんらスタッフ集めの経緯を詳しく説明した。

 資金集めの中心となった、製作委員会の事務局長だった高見優さんは「天の時、地の利、人の輪。この3つがそろったからこの映画はできた。奇跡のようなもの」と言う。その上で2000万円という具体的な資金集めの目標を掲げ、市民を巻き込んでいく苦労を語った。

写真中=左から小林さん、旗野さん

 スタッフの拠点「阿賀の家」に数年間住み込んだ小林茂さんとスチールの村井勇さんは、撮影の舞台裏を話した。1年間かけた編集では、佐藤監督が一回つないだフィルムをばらして激しいディスカッションを繰り広げ、それぞれが個別に編集して「私の『阿賀に生きる』」をつくってみたエピソードを披露。「監督が一人でやればいいやというのでは、いい映画にはならない。分業されている劇場用映画なら別だが、自主映画ならスタッフ1人1人が力を出さないと、いい作品にはならない」(小林)と、受講生の今後の卒業制作に向けて参考になる意見を述べた。

 「映画はできて半分、残りの半分は上映」と語ったのは、「阿賀に生きるを・みる会」の事務局として県内の上映活動に携わった小川弘幸さん。「アンケートの回収率が高かったのが印象深い。上映が縁で、人と人のネットワークが生まれた。8年たった今でも財産」と言う。

写真下=左から小川さん、大倉さん

 制作関係者ではなく、批評する立場で「阿賀」に感銘を受けた美術評論家の大倉宏さんは「この映画は変なところで泣けてくる。当時、なぜ涙が出るのか考えた。事実をとらえようとして夢に出合った映画だからだと思う。事実という“銀”を掘り出そうとして、事実を超えた“金”が出てきたようなもの」と話す。

 それぞれの「阿賀に生きる」があり、いまも心の中に生き続けている。なんて幸福な映画なんだろうと感じた。

 その後の卒業作品の経過説明では、「受講生から1人以上の賛同者を集めること」というスタッフ側の強い要望に該当する作品が4作品出てきた。しかし依然大多数の受講生が態度を保留したまま。この日の小林さんのアドバイスをもう一度思い出してほしい。

 

 

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