2000.5.5


●にいがた映画塾第5期講座●

講師紹介

名前をクリックすると、その講師の方の経歴を見ることができます。

(50音順)

臼井勝 ■北野圭介 ■小林 茂 ■笹崎 隆 ■戸中井三太 ■ナシモトタオ ■野上純嗣 ■原将人


 

臼井勝(うすい・まさる)

1968年生まれ。岐阜市内の高校でデザインを学び印刷会社でデザイナーとして勤めるのと並行して、市内のイベント集団「アートマーケット24」に参加。イベントのプロデュース、自主映画の上映などを手掛けるうち、映画監督の山川直人氏と知り合い上京。村上龍『トパーズ』(92)で録音技師としてスタート。最近では塩田明彦監督『どこまでもいこう』(99)、前島誠二朗監督の自主映画『レイジング・ユーバリ』(99)を担当。映画美学校での講師も務め、映画美学校学生作品『Four Fresh+2』の整音も手掛けている。最新作は青山真治監督『ユリイカ』、雨宮敬太監督『三日月』など。

(塩田明彦監督「どこまでもいこう」ホームページなど参考)


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北野圭介(きたの けいすけ)

大阪府出身。新潟大学人文学部助教授。1989年−98年 ニューヨーク大学研究科をへて、95年ごろからニューヨーク大学他で非常勤講師などを経験。ここ数年で思い出に残っている映画は「スクリーム2」、本当は実験映画が好き。


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小林茂(こばやししげる)

 1954年新潟県生まれ。映画キャメラマン。監督。写真家。長岡高校・同志社大学法学部卒。砲丸投げ県高校記録を長く保持。「福祉」を問いつづける柳沢寿男監督の助監を経て、ドキュメンタリー映画「阿賀に生きる」(92年/佐藤真監督)の撮影により日本映画撮影監督協会第1回JSC賞受賞。他のドキュメンタリー作品に「農民とともに〜佐久総合病院の50年〜」(95年/時枝俊江監督)、「地域をつむぐ〜佐久総合病院小海町診療所から〜」(96年/同)、また97年に第1回監督・撮影「放課後」を完成。写真集に「今日もせっせと生きている」(81年/風媒社)、「ぱんぱかぱん」(85年/径書房)、「グラフィックドキュメント・スモン」(89年/日本評論社・共著)、「トゥスビラ・希望−ウガンダに生まれた子供たち」(96年/情報センター出版局)がある。現在、4年がかりで北海道の炭鉱を舞台に記録映画「闇を掘る」(藤本幸久監督)を撮影中。98年夏には「放課後」の続編「自転車」を監督・撮影し、99年4月に完成。長岡市で母、妻、娘、犬一匹と暮らす。


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笹崎隆(ささざきたかし)

 1958年新潟市生まれ。ビデオカメラマン。専大映研時代、数々の自主映画に参加する。主なパートは照明。その後、イメージフォーラム附属映像研究所で実験映画、個人映画を制作する。81年からビデオ作品も手がける。91年、ビデオ制作プロダクションを設立する。にいがた映画塾には第1期から、スタッフ(講師兼任)として参加する。ビデオから16mmまで、幅広い知識と経験にもとづいて、映画塾塾生をはじめ、新潟のインディーズ作家の指導にあたっている。


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戸中井三太 (となかいさんた)

1964年新潟県生まれ。劇団カタコンベ座長。脚本家。演出家。俳優。1985年新潟大学演劇研究部在籍中、有志4名とともに劇団カタコンベを創立。以後3年間、メンバー不定で、ゲリラ的に公演活動をしていたが、1989年、座長に就任し、新潟市内にアトリエを持つ本格的な劇団として、カタコンベを再結成する。オリジナル作品を公演し続けている。また、他劇団にも脚本を提供している。主な作品:「死人と踊れ」(アトリエ、劇団昴三百人劇場、駒場アゴラ劇場)「悪意の天使」(アトリエ、松本劇場フェスティバル、新潟フェイズ)「Slow Sand」(新潟、富山、山形)「コップの水の向こう側に風に吹かれてミジンコが行く」(新潟、柏崎、長岡、東京)

 


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ナシモトタオ

 吉田町生まれ。映像作家。1982年〜85年まで劇団コスモス/テアトル・アカデミーに所属。89年東京映像芸術学院に入学するが、一年で中退。その後、今関あきよし監督のプロモーション・ビデオの製作に参加したことをきっかけにフリーの制作進行として、ユニコーン、THE BOOM、真心ブラザース、江口洋介等を手掛ける。91年、筋肉少女帯「暴いておやりよドルバッキー」で、ディレクターとなる。並行してJリーグのチームビデオ制作に参加。初年度は鹿島アントラーズのラインプロデューサー、翌年、ジュビロ磐田のディレクターを担当するが、そのビデオ制作中に病に倒れ降板、帰郷し個展「glass ball」で写真家として本格デビューする。数度の個展、グループ展を重ねる中でスライドを使った発表形態をとるようになる。「通常のスライドショーでは、映しだされる映像の“なにか”は伝わらない。受け手が自分のスピードで観るべきだ」と、プロジェクターを街に出し、路上の壁面に映して、受け手自らに操作させる「アクティライド」を提唱し始める。97年、新潟のサッカープロチーム、アルビレックス新潟の専属カメラマンになる。同年秋、自らをスライドパフォーマーと称して、スライドシネマ「カオス」をシネ・ウインドにて上映する。その時来県していた女優千賀ゆう子と意気投合し、98年新津市美術館にて演劇とスライドのコラボレーション「花の下にて」で共演する。これを機に99年、千賀企画と共同製作による「古事記」韓国・仙台・東京上演、「桜の森の満開の下」のポーランド、ルーマニア上演を実現。98年から製作集団「in out」代表として自身の映像作品を活発に制作している。

 


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野上純嗣(のがみすみつぐ)

 1963年生。長岡大手高卒。大阪芸大映像計画学科卒。イメージフォーラム付属映像研究所卒。90年、イメージフォーラムフェスティバルで自主制作映画「すみつぐのつぐ」がグランプリ受賞。長岡に帰郷後、映像制作にたずさわる。ドラマ、ドキュメンタリー、結婚式、記録、PR、取材、その他各種映像。作品「酒造りの唄」(1998・VTR作品)など。ミニシアター系フィルムの配給、上映コーディネートも行う。現在、新潟デザイン専門学校 非常勤講師。映画論、映画制作、映画演習、映像コース担当。長岡・市民映画館をつくる会スタッフ。


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原将人(はら・まさと)

1950年7月15日、東京都目黒区生まれ、1968年、私立麻布学園高校在学中に16ミリ映画「おかしさに彩られた悲しみのバラード」で第1回フィルム・アート・フェスティバル東京のグランプリ及びATG賞を受賞し、各方面に一大センセーションを巻き起こした。弱冠18才の受賞は、当時の盛り上がりを 見せていた自主映画運動と相まって、一躍、時代の寵児の誕生となったのである(この衝撃の大きさは村上龍氏が小説「69」で描いている)。

高校卒業後に、松本俊夫監督の「薔薇の葬列」(’69)に参加、70年には大島渚監督の「東京争戦後秘話」の脚本及び予告編を担当する。また、同時期に撮り続けていた「自己表出史・早川義夫編」を発表。73年には、北海道を起点に、古事記をモチーフに、日本列島を南下する、映像作家の旅を自作自演しながら、映画という小宇宙と天地創造の神話の大宇宙とが照応した映像叙事詩「初国知所之天皇」を3年がかりで完成させる。

監督・撮影・編集・音楽のすべてが彼一人の手で仕上げられたこの作品は、上映方法も独自で、監督自らが映写機を操作しながらのパフォーマンス上映で、1年間、渋谷のポーリエ・フォルトで続けられた。この作品は、70年代の自主映画界に大きな衝撃と多大は影響を与え、その壮大なテーマとヴィジョンは、今現在も伝説的映画として語り継がれている(この作品はキネマ旬報社刊「日本映画200選」に選ばれている唯一のインディペンデントシネマである)。

70年代後半より活動のフィールドをビデオに移し、「ユリシーズの不思議な旅」(’79)などを発表。また、教育映画TV番組の演出と多方面に活動を続け、93年、20年ぶりに、インディーズ作品「百代の過客」を製作。「百代の過客」の一部は93年度ニューバージョン「初国知之天皇」とともに山形国際ドキュメンタリー映画祭に特別招待作品として上映され絶賛を浴びた。

このたび、永年暖めていた企画「20世紀ノスタルジア」で待望の劇映画デビューを果たす。

詳しくはhttp://www.top.or.jp/~sknga/


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